今回も、若い頃の反省例です。
研究授業の時、事前に1限時の流れに沿い、生徒からの解答を導き出す発問を考えていました。
ところが、生徒からなかなか解答が出て来ないので、よく分かるようにと、代わりの発問を出しました。でも、更に解答も出ないために、またもや、代わりの発問をしてしまいました。
結局、焦って教師自身から解答を言って、授業を進めてしまいました。
その後の反省会で、自分の反省の弁を言うことになりました。
その反省の弁の後、ある先生が、「矢継ぎ早の質問で、生徒は混乱し、何を答えたらいいのかわからなくなった。」との意見が出ました。
私は、「50分しかないので、次に進むために焦って、矢継ぎ早に質問を出したのです。」と応えました。
ある先生は、更に「50分しかないのではなく、50分もあり、じっくり生徒に考えさせる時間を持つべきで、生徒の考えや発言を『待つ心のゆとり』が、山口先生にはなかった。自分が考えた授業のレールの上を走らせることしか考えていなかった。」と言われました。
自己本位な授業を展開する教師の姿が、そこにはあったのです。
校長先生から、『「教育」というのは、教えるという字の次に、「育」という漢字がある。「育」は育てることであり、生徒を育てるには、生徒自身から湧き上がるものを『待つ心のゆとり』が必要だ。』と言われました。
教師が、こちらが思うような生徒であって欲しいと働きかけるだけでなく、自立した生徒に育てるために、生徒自身の思いや言動が出てくる『待つ心のゆとり』を、教師は持つことが大切なのだと感じました。
これも、『個を伸ばす教育』として、大切な教師の心構えですね。
それは、子を育てる親の心構えでもあります。
子どもから「言おうとしていたのに」「やろうとしていたのに」と言われたことはありませんか?
ふと、そこで立ち止まってみましょう。